少年A 矯正2500日全記録

「少年A 矯正2500日全記録」を読んだ。



神戸連続児童殺傷事件の加害者、少年Aが逮捕されてから仮釈放されるまでのドキュメンタリー。
以前に、少年A本人が書いた「絶歌」を読んだが、この書籍は、少年Aを矯正した側の立場で書かれている。
様々な問題提起がされ、ひじょうに興味深い内容だった。

(1).強制されたといっても、それは矯正教育に関わった人の主観であり、客観的に証明しようがない

これは、少年Aに限った話ではなく、他の受刑者でも同じで、いくら優良な受刑者であっても、矯正したか否かは刑務所側の職員の主観でしかなく、本当に矯正したのか、犯罪者である部分が精神の中に残っているのか、証明はできない。
その事は、刑期を終えたものが再犯者として再び投獄されるケースが多々ある事でも示されている。
刑務所は、犯罪者に対して罰を与えるだけが目的ではなく、犯罪者を矯正して社会復帰させる意味も持ち合せていると思うが、そもそも刑期は裁判の段階で決まってしまう。裁判官の判断によって「反省の態度が見られない」といった理由で長い刑期となる事はあるかもしれないが、犯罪者をその刑期で矯正できるという意味ではない。
ずんべの個人的な意見としては、どんなに軽い犯罪を犯した者でも、矯正できない者(釈放しても再犯に陥る者)は、矯正できるまで釈放の道を閉ざしてもいいと思う。
逆に、どんなに重い罪を犯した者でも、矯正できたものは、釈放の道を開いてもいいと思う。
もちろん、刑務所に収監する事は刑罰の意味もあるし、被害者の心情も考慮すべきではあると思うので、単純に矯正したか否かだけでは決められないとは思うけれど、考慮すべき事ではないかと思う。

(2).日本では被害者の人権より加害者の人権を尊重することに熱心である

これはよく報道されている、加害者の実名や写真の公表が規制され、被害者の実名や写真が公表されるという話ではなく、被害者は自らの安全を守るために、被害者や地域の住民が、加害者の情報を知る権利があるという話である。
加害者を手厚く守り、矯正させることを国家プロジェクト的に扱うが、少年Aの状況は、何の報告もされないまま、法務省側のみの判断によって釈放に至る。被害者や住民側から見たら「犯罪者が野に放たれる」感覚だろう。
少年Aを国家プロジェクト的に特別扱いするならば、同じパワーで被害者を扱わなければ、被害者側から見たら、犯罪者の守る事だけに力を費やしているように見えるだろう。
少年法の理念というものはあるのだろうけれど、被害者側の立場にも立つべきだと思う。

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